放浪息子(2) (BEAM COMIX) 志村貴子『放浪息子』2巻の感想を書いたのはもう14年前になる。

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/hourou-musuko2.html


 『放浪息子』はトランスジェンダーの話ではないか、という意見に対して、ぼくは次のように書いた。


 志村の漫画を「トランスジェンダーもの」だ、とする見解がある。

 むろん、素材的にはトランスジェンダーをあつかっているが、志村が描きたいのはトランスジェンダーそのものではなく、志村は、それをテコにして「女性」を描きたいのだ。

 「女性とは何か」。

 それに答えるためには、女性というものがどのように生成してくるのかをみなければならない。女性の生成史は、そのまま女性の概念史であり、女性というものの「論理」の歴史である。

 マルクスは、ヘーゲルに学んで、歴史的なものと論理的なものが一致することを見抜き、『資本論』を著した。商品から貨幣、貨幣から資本の生成史は、資本とは何であるかという概念史であり、それは資本とは何かという説明のなかに組み込まれている論理そのものである。


 あるものが何であるのか、という規定をしようとすれば、あるものの歴史を、生成史をみればよい。

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 二鳥修一が「女性」になる瞬間とは、まさしく「女性の生成史」である。

 修一の「女性」としての生成は、女性とは何であるのか、ということを、ぼくらに嫌が応でも示してしまう。

 あるいは、スピノザの有名な「規定とは否定である」のごとく、その「女性」を否定するものをすぐそばに配置することによって、逆に、「女性とは何か」ということは、明瞭に規定される。

 「女性から男性に」なろうとする高槻よしのをすぐそばに配置することによって、あるいは、「女性」にトランスしたはずの修一を「男としての変声期や夢精」が襲うことによって、修一の「女性」性は、ネガのように暴露されてしまう。

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 歴史とは論理である。

 あるものの歴史をたどるということは、あるものがどのように成り立っているかをさぐることであり、あるものを成り立たせている論理を知ることである。


 記憶が失われ、家族になることをもう一度始める。

 恋人になることをもう一度始める。

 それは家族の歴史をもう一度たどり直すことであり、恋人という歴史をもう一度たどり直すことであり、それは家族とはなんであるかという論理を示し、恋人とはなんであるかという論理を示すことになる。


シックス ハーフ  コミック 全11巻完結セット 池谷理香子『シックス ハーフ』の主人公で高校生の菊川詩織はバイクの事故で記憶を失う。派手なギャルだった記憶喪失前の「自分」、ギクシャクする家族、記憶をなくす直前に「恋人」だった後輩、実は恋心を寄せていた兄を知り直す。


 兄に恋心を寄せる、ということを普通に描いても確かにそれは歴史を描くことにはなる。だけど、欠落があってそこを埋める、という謎のような性格を持たせることで、読者は強く欠落を意識させられる。なぜ、いまのような姿になっているのか、を絶えず念頭におきながら、物語を読んでいくことになるのだ。


 ぼくは、『シックス ハーフ』のうち、明夫にはほとんど興味を示すことができなかった。

 圧倒的に、主人公・詩織を見続けていた。


シックス ハーフ 1 (りぼんマスコットコミックスDIGITAL) 第一に、とても綺麗だったから。

 コマごとのグラフィックが本当に美しい。

 モデルを始める、という設定もあるせいか、ストップモーションのようにして描かれる詩織は、確かにアイドルのポスターのようだった。

 第二に、派手なギャルだったはずの過去の自分の評価に出会うたびに、詩織が覚える戸惑いは、そのまま思春期から青春時代の「自分とは何か」という模索のようなものを表しているように感じた。

 「自分(詩織)でないもの」に遭遇する。そのたびに「自分(詩織)とは何か」が定義しなおされ、「自分(詩織)的なもの」というものが現れざるを得ない。ヘーゲルでいう「有」がまずおかれ、その対概念となる「無」があらわれ、そして「無」から「有」が生じる「成」ができるように、「自分(詩織)」というものが自己展開していくのだ。

 自分とはどういうものだったのか、ということを過去の自分の評価に出会って、その瞬間にもう一度定義し直す、という作業は、思春期や青春期だけではなく、人生の動揺期でもある40代のぼくであっても共感を覚える。

 家族にとっての自分(詩織)、恋人にとっての自分(詩織)というだけでなく、新しく将来の職業になりそうなモデルを選び取っていこうとする詩織の姿に、アラフィフ男のぼくも自己再定義を重ねて見てしまうのである。


 「ヤングユー」を読んでいた頃、池谷の作品はかなり読んでいた。

 しかし、同誌の休刊とともに疎遠になり、その後はごくたまにしか読むことはなかった。

 ところが、今回、電子書籍で3巻あたりまでが無料キャンペーンになっていたのをたまたまつれあいが読んでいて「これ、面白いよ」と言って勧めてくれたのがきっかけだった(もちろん、つれあいも池谷の作品はよく読んでいた)。まことにつれあいの「おすすめ」通りで、ぼくは次々に11巻まで買って読んでしまった。恐るべし、無料キャンペーン。

 一読して最初に思ったことは、小4の娘が読んでいる学童むけ「少女マンガ」との激しい差であった。

 比べたらいかんのかもしれないけど、「きょうだいを好きになる」とか「記憶をなくす」とか「恋敵と争う」という設定は同じはずなのに、娘の読んでいるものはなんであんなに陳腐なのか。池谷レベルのものを娘が読んでいるような少女マンガ誌に載せたら難しすぎるんだろうか、いや十分面白いと思ってもらえるんじゃねーのか? などと思ってしまった。