宮本武蔵 年表

 

天正12年(1584年)宮本武蔵誕生します。幼名・辨助(べんのすけ)

宮本武蔵の生誕地を巡っては美作説と播磨説(宮本村高砂市)があります。

慶長元年(1596年)有馬喜兵衛の目下無双兵法者なりという高札を見て、

初めての決闘を挑み一刀のもとに倒しました。

慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いでは西軍・宇喜多秀家に従軍します。

慶長6年(1601年)龍野の圓光寺にて修練し、圓明一刀流を編み出したと言われています。

1604年(慶長9年)蓮台野にて決闘が行われ、武蔵の木刀による一撃で吉川清十郎を破ります。

1604年(慶長9年)吉岡一門当主・清十郎の仇討ちに燃える弟・伝七郎を蓮華王院三十三間堂で返り討ちにします。

1604年(慶長9年)吉岡一門との決闘を前に修験道の寺・猪谷山不動院で滝の修行を行います。

1604年(慶長9年)宮本武蔵と吉岡一門の闘いが一乗寺下り松付近で行われます。

吉岡一門は70人近くの門下生で戦いますが、宮本武蔵は吉岡一門をたった一人で打ち破ります。

1604年(慶長 9年)奈良・宝蔵院にて奥蔵院の住職道栄を破ります。

1605年(慶長10年)妙心寺退蔵院に通い禅の修行をしたり、瓢鮎図を見ながら自問自答の日々を送ります。

慶長17年(1612年)4月、燕返しの剣法をあみ出した岩流の達人佐々木小次郎と、

舟島(のちに巌流島と改名)で対決。

武蔵は木刀の一撃で佐々木小次郎を倒します。

慶長20年(1615年)大坂の夏の陣では、水野勝成の客将としてその子・勝重付で出陣します。

元和四年(1618年)築城の始まった明石に来て小笠原忠真の客分となった宮本武蔵は、

明石城下の町割りを任され、屋敷、寺院などの作庭にもあたります。

1621年~1624年の間のいずれか。。大仙寺の門前の石の上で三日三晩座禅を組み、

愚道国師に入山を許され、大仙寺での修行を開始します。

1624年頃。。尾張徳川家の兵法指南役を目指そうと、尾張の東光院に滞在しますが、

尾張徳川家での仕官はかないませんでした。

寛永3年(1626年)明石藩主・小笠原忠真に養子である伊織を推挙。

宮本伊織は近習として出仕することになります。

寛永9年(1632年)播州明石の城主小笠原忠真が豊前小倉へ移封されたため、

宮本伊織・宮本武蔵も小倉に移り住むことになります。

寛永15年(1638年)の島原の乱が勃発し、小倉藩主•小笠原忠真は、天草四朗時貞率いる一揆軍鎮圧のため、島原に出陣。宮本武蔵は宮本伊織とともに従軍します。

寛永17年(1640年)熊本藩主・細川忠利に客分として招かれ熊本に移ります。

熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、

7人扶持18石に合力米300石が支給されるなど破格の待遇で迎えられます。

寛永20年(1643年)熊本市近郊の金峰山にある霊厳洞で五輪書の執筆を始めます。

正保2年(1645年)千葉城の屋敷で亡くなります。

「死後も藩主を見守りたい」という遺言から参勤交代が通る大津街道沿いに墓が建てられ、

現在の武蔵塚公園となりました。