狙った地位が得られなかったからといって、任務を放棄する呉起ではありません。

 武侯が西河を訪れ、呉起と共に船で川を下った際のことです。武侯は西河が天然の防御ラインになっていることに感嘆し、「これぞ国の宝である」と言います。ところが、呉起は「いいえ、国の宝は徳です。三苗氏は洞庭湖と?陽湖の間にありましたが徳がなかったため禹に滅ぼされ、夏の桀王は川と山にの険阻に守られていましたが徳がなかったため湯王はこれを放逐し、殷の紂王も同様に天嶮の地にありましたが徳に欠けたため武王に殺されました。全ては徳です。険阻ではありません」と応え、武侯を唸らせました。

 あるとき、武侯が部下を相手に議論を行い、言い負かし得意そうにしていました。呉起は、楚の荘王は同じようなことがあったとき、有能な部下がいないことを憂いたと武侯を諌めてもいます。

 そんな呉起でしたが、田文が死んで公叔が宰相を継ぐと、讒言を受けて武侯に疎まれるようになります。身の危険を感じた呉起は魏を去り、楚の悼王の下へ赴きます。

 かねてから呉起の高名を知っていた悼王は呉起の亡命を受け入れ、変法を委ねました。楚は面積こそ広いのですが、いかんせん人口が少ないという弱点を抱えています。そこで、呉起は王族や貴族を地方に赴任させて開墾させたり、貴族も3代までしか続かせないようにしてカネを中央に集めることで、中央集権と国土の開発を図ります。

 貴族たちは猛反発しましたが、悼王が呉起を信任しているため、従うしかありません。呉起は恨みを買っていることなどなんのその、兵士の給与をあげ、南方では越に勝利を挙げ、北方では陳と蔡を併呑し、三晋を退け秦を伐つと、名将ぶりを遺憾なく発揮します。

 ところが、前381年に呉起の庇護者であった悼王が亡くなります。すると、その葬儀も終わらないうちに貴族たちがクーデターを起こしました。刺客に追われた呉起は、悼王の遺体が安置されている部屋に逃げ込むと、その遺体に覆い被さりました。そこに、刺客たちの矢が放たれます。無数の矢が呉起を貫き、彼は自分を庇護してくれた悼王の遺体の上で死にました。


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