全身の力をふりしぼり、声を出す。単語をひとつひとつゆっくりとつなぎ、丁寧に伝えようとする。

 生後まもなく脳性まひになり、手足などに重い障害が残った福田文恵さん(57)=富山市=は、思い出すのもつらい10代の体験を詳細に語り始めた。

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 富山県内の養護学校に通い、初潮は高校2年の時に迎えた。障害の軽い女性たちは「おめでとう」と言われたが、自分を祝ってくれる職員はなかった。「生理の始末をできないならどうするの。子宮を摘出すれば」。逆に看護師から生涯忘れようのない言葉を投げつけられ、「重度障害者にとって、生理は邪魔なもの」と思った。

 脳性まひは、旧優生保護法(1948~96年)が定めた強制不妊手術の対象ではなかったし、子宮の摘出も認められていなかった。しかし、「障害者」と呼ばれた人たちに対する社会の見方は、障害の様態に関係なく冷たかった。医師の反対で手術は免れたが、看護師から「取らないなら、自分で生理の始末をする練習をしなさい」と迫られた。

 不自由な手で服を着たり脱いだりしてみたが、体への負担は大きすぎた。自分一人では何もできないと思うと、言い返すことなどできなかった。その時に無理をしたためか、20代のころには日常生活のすべてで誰かの介助が必要になった。

 同じ施設で生活を共にした脳性まひの友人(60)も「生理は悪いこと」と信じ、22歳の時に自ら希望して子宮を摘出した。友人は後遺症に苦しんだ過去を明かし、「私も子どもを産み育てられたかもしれない」と悔やんでいるという。

 96年に母体保護法に改正され、露骨な強制はなくなった。だが、40代のころに子宮内膜症にかかった際、医師から「生理がなくなったら楽になる」と子宮の摘出を勧められた。別の病院の検査では子宮に異常はなかった。「障害者は子どもを産まなくてよい」との意識は、法律が生んだのか。意識が法律を生んだのか。

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 3時間半に及んだ取材。福田さんは最後に問いかけた。「他人の手を借りる弱い立場になると、どうして差別されるのでしょうか」

 現在、1日のほとんどをヘルパーに介助されながら、団地で暮らしている。食事は小さく切って口に運んでもらう。お風呂もトイレも手助けしてもらう。できないことにそっと手を貸してくれる現在の環境に「自由な生活を手に入れた」と思っている。
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