[断崖の火文字櫓と小富士山]

高知県の国道33号を車で日高村から佐川町に入って最初の左カーブを曲がり、向きが北向きになった時、前方左手に三角形の切り立った尖峰を目にしたことがある方は多いと思う。見た目から標高は200m前後か、それ以下と思われるのだが、山頂部に何か人工的な櫓のようなものが見える。それがこの四半世紀、ずっと気になっていた。

 

しかし最近、その正体が判明した。何とその櫓のような「モノ」は、町の無形文化財に指定されていたのである。それは旧暦615日直前の日曜の夕方に行われる権現嶽(前述の尖峰)山頂に鎮座する聖神社の夏祭りに関係するものだった。即ち、「大文字の送り火」である。

 

大文字の送り火の本家は、京都・東山36峰の主峰、如意ヶ岳(大文字山)中腹で81620時から執り行われる盂蘭盆会の精霊送り火(上の写真は'91年時)で、四万十市の十代地山でも旧暦716日に行われている。四万十市の方は公家出身の武将・一条氏が如意ヶ岳の送り火を懐かしみ、且つ、父と祖父の霊を鎮めるために中世に始めた行事であり、間接的に本家の送り火とは繋がりがある。

 

しかし権現嶽(189m)のものは誰がいつ、何のために始めたのか不詳。しかも前述の二件とは決定的に異なる部分がある。大文字山と十代地山のものが山の地面に火床を作り、松明によって点火するのに対し、権現嶽のものは崖に金属製のパイプで櫓と足場を組み、それに提灯を「大」の字に吊るすのである。点火するのはロウソク故、30分弱ほどで大文字の火は消えてしまう。泡沫(うたかた)の祭りである。

 

佐川町史によると、元々は714日に開催されており、大文字以外に「祝」や「平和」等の文字も模っていたとのこと。しかし昭和20年代に途絶えたという。

当方が初めて山頂部の櫓に気づいたのは’93年か’94年頃なので、平成初期頃、復活したのかも知れない。

 

権現嶽の櫓箇所は断崖になっているため、当然、胸のすく展望が得られるはず。地形図(越知)を見ると山頂まで車道化されている。しかし自治体ではその車道をウォーキングコースとして紹介している。その理由は車道の幅員が狭く、車両待避所も少なく、急勾配箇所もあるため。

 

その車道は車道化される前に利用されていた竹の倉集落にある登山口(鳥居あり=上の地図)前を通る。その登山口に到るまでには「お岩様」という巨石もあるのだが、駐車場所がないため、写真も撮れない。

鳥居から上がる登山道は数分以内で上の車道に出るが、車道から上の登山道は車窓から見る限りでは確認できなかった。入口がヤブに覆われているか、廃道化しているのかも知れない。

 

車道は神社下の広場に出るが、この広場手前の登山道(参拝道)は残っている。

石段を上がり、伊弉諾神と伊弉冉神が祭られている聖神社の背後に回ると頂上の岩場があり、その崖に櫓が組まれている。櫓の足場は立入禁止となっているが、横の岩場からパノラマが広がっている。介石山(貝石山)から山姥平、清宝山へと続く「送電鉄塔山脈」が正面に展開し、西方には前衛の複数の尾根から「佐川富士」こと小富士山(207m)が円錐形の頭をもたげている(上の写真)。

 

昔から小富士山は佐川町乙富士見町から遠望すると富士山型に見えると言われている。JR西佐川駅の南西一帯だが、現在でもそこから山容が遠望できるか否かは未確認。

小富士山は「佐川八景」の一つ「小富士の暮雪」として町内では知られていた。しかし地球温暖化の影響で積雪は稀になった。それでも積雪に関係なく、一部の山岳会やピークハンターは「ご当地富士の制覇」ということで登っている。勿論、登山口から僅か十数分で登頂できるため、散歩がてらに登る町民もいる。

 

こちらの山も登山口に到る車道が狭く、登山口付近の駐車にも苦慮するほど。

最初の道標は山の南西麓、二車線道の三差路(西方に老人ホームあり)に建っているが、ここから北に入る道路が狭い。佐川射撃場(外観は廃業しているように見える)を過ぎるとすぐ登山口(下の地図)なので、射撃場の門前の隅へ駐車するしかない。スペースは一台分のみ。

軽四であればその先の登山口道標からコースになっている急勾配のコンクリート道を少し上がった右手に何とか駐車できる。

 

道は小富士山南の鞍部に達すると直角に北に折れる。ここにも道標と大正時代に建立された開山記念碑がある。後はジグザグに上る登山道を辿るのみ。

山頂には石鎚神社の祠があり、東端から僅かに展望が開ける程度だが、真の展望所は西に少し下った地点にある岩場(下の写真)。

 

眼下の聖山から戦跡本で解説した越知町界の女川山(298m)、車道化されている三宝山(442.4m)等、西方一帯の展望が開けている。

尚、山頂からこの展望所まではかつて修業場だったようで、尾根道沿いの何ヶ所かの岩場にコンクリート台座が残っている。石鎚権現像等が祭られていたのかも知れない。

 

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